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こころの授業21 こころと宗教  ALL 2013/03/05(Tue)22:06:12 削除
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こころの授業21 こころと宗教についてです。
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哲学と宗教とはどこが異なるか
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物事の結果として、次の4つの項目を考えます。
1には、いつもそうなる、必ずそうなるもの
2には、そうなることもある、たまにそうなるもの
3には、そうなりうるかもしれない、可能性があるもの
4には、まだ、わからないもの

宗教は、上の項目でいうと、4に相当するものであろう。
それは、多くの宗教が生き方について説いている学問であって
結果として必ずそうなると結果を保証するものではないからで
あり、むしろ、現代の人類の多くが持つ価値観に反するもので
もあり、将来の結果をみなければ、どうなのかが保証できない
ものであるのです。現代の人類は、必ずそうなるという保証を
求め、すぐに結果のでるものを求める傾向にあるといえます。

哲学は、上の項目でいうと、3、4に相当するものであろう。
では、哲学と宗教とはいったいどこが異なるのだろうか。
違いはどこにあるのだろうか。

哲学は、多くの人類の認める価値観を含む「論理的な」思考が
そこにあり、推理の過程が、結果を推し量る上で、可能性を前
面に出しており、多くの人類に、3を思わせるものであります。
つまり、このようであるならば、こうなるであろう、という可
能性をまず示し、ならば、次には、こうなるであろうという可
能性を次々に畳み込み、論理を発展させていく。初めて聞くも
のにも、可能性を大いに期待させるものとなるのだろう。
宗教は、人類の知る内容から飛躍する内容を示す事柄が多く、
到底「人類の論理で」推し量ることのできないことを要求する
ものであります。そこには、初めて聞くものには、到底理解で
きないものとなるのだろう。哲学の目的は、誰もが認めるもの
として、新しい内容を定義するものであります。

ならば、同じ内容を哲学と宗教で表現することはできるのだろ
うか。できるとすれば、そこにどんな違いがでるものだろうか
を考えてみたい。

例えば、「神々が存在する」という命題だ。宗教ならば、「神
々が存在する」という内容そのものを伝えるだろう。哲学なら
ば、誰もがそうであると思わせる「論理的な展開」がそこには
必要であります。実験データを示し推理するか、多くの人類の
すでに持ちうる常識から論理を組み立てるかの方法が採られる
だろう。神を伝える場合、人類の半数がそれを目撃し、明白に
常識の範囲で存在を認知している可能性はないだろう。従って
哲学では、取り扱う範囲外となり、お手上げとなるだろう。
また、実験データを示すことは、現代の科学的な手法に通じる
ものでもありますが、過去に蓄積されたデータもありません。
科学は、上の項目では、1、2に相当するものであろう。2を
考えるときには、少なくとも、50%以上の確率で論理が成立
する必要はあるだろう。


宗教はなぜ存在するか
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宗教とは、人類が後に4なるものを定義するものとしてでてき
たものだろう。私が伝えるものは、もちろん、宗教ではなく、
真実を伝えているだけなのだが、私が人間の肉体を持って人間
界に生きているときには、当然、上の項目の1であり、科学同
様に、必ず、結果がでるものとしての教えであったはずだ。
教えは、科学を超えているが、結果が100%正しく現れるの
で、誰もが信じられたのだろう。私が霊界にもどり、一時は、
体験した上の項目の1の要素がある故に、伝道される。そして
一万年たつと、信じられないとなり、神を否定するのだろう。
大体、一万年ごとに繰り返される。だから、人類は一万三千年
毎に消滅するのだ。数千人は、残していたがね。彼らがいつも
文明を伝えるようになっていた。

さて、では、真理はなぜ、分かりにくく、理解されにくいのだ
ろうかを考えてみたい。

まず、第一に選ばれたものだけを救済する意味があるのだろう。
分かりにくくし、繰り返し繰り返し鍛錬し、学習するもの、辛
抱強いものを選別し、その努力は、人間界での成功とは相反す
るものであることが多いだろう。それでも、神を信じて進むも
のを選び出し、最終的に救済するのだ。人間界での過去の失敗
などは、無関係、今の状態が重要である。これも、変わらぬ私
の考え方だ。キリスト教、仏教、イスラム教でもいつも同じだ。
伝えたものが、私の意志を反映しているからだ。秦の始皇帝、
織田信長の時でさえ、同じであったからこそ、百姓であった豊
臣秀吉を飯抱え、彼が天下を取れたのだろう。でなければ、あ
んな小心者が天下などとれるものか。私、主になりふり構わず
ついてきたからこそ、彼にご褒美がおりたのだろう。

第二に、神たるもの、人類に媚びる必要などはまったくない。
真実を、真実たる言葉で伝えるだけであろう。
人類が理解する、未経験のことであっても、真実なのだから、
そのように伝えるだけであり、内容を曲げる必要などはないだ
ろう。

神は万人を救うという理論は、昔の話しなのだろう。







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